弘法の筆謬り

外資系企業で働く戦略コンサルタントのブログです

「考えない」習慣

「仕事をしているとき以外は仕事のことを考えない」ということは、心身をリフレッシュする上で重要なことだと考えています。

プロジェクトにアサインされていると、特にクライアントとの定例会が近いときは寝ても覚めても仕事のことを考えてしまう、というのがあるあるですが、これを美談あるいはあるべきコンサルタントの姿勢として語ることには反対です。

それこそ風呂の中、トイレの中、ベッドの上などでいいアイデアや考えが思いつくのだ、として考え抜くことがコンサルタントとして奨励されていますが、それはほんの一握りの、仕事のことを考えることが楽しくて楽しくて仕方のない人に限った話です。

プロ根性のある無し、ラストマンシップのある無しに関わらず、仕事には何らかストレスがついてまわります。純粋に仕事のことだけを考えられる状態などありません。怖い上司やクライアントの顔だったり、詰められる恐怖であったり、種々のストレスが存在します。

四六時中仕事のことを考えるというのは、寝ても覚めてもこのストレスにさらされ続けるということを意味するわけで、極めて不健全な状態です。

考えるのを、やめる。

仕事をするときは仕事のことを考え、ものを食べているときや誰かと過ごしているとき、ベッドでまどろんでいるときなど、仕事をしていないときは仕事以外のことを考えるように意識するということが重要です。

とはいえなかなか「考えないようにする」ということは難しいことで、自然にできる人もいればトレーニングが必要な人もいることでしょう。

そういう人はゲームをするでもジムに行くでも、映画をみるでも何でも良いので自分が没頭できる何かを見つけることです、「考えないようにする」ことが難しいのであれば、「他のことを強く考える」ことで頭の中から仕事を無理やりにでも追い出すことが重要です。

休むべきに休んでおかないと、ここぞというときに踏ん張りがきかないのは肉体も精神も同じです。メリハリをつけて働くべきなのは、なにも労働時間だけではありません、思考の時間にもメリハリを付けることでこそ、レジリエンスは高まります。

このトピックに関連して非常に示唆深いTEDがありますのでぜひ一度見てみることをおすすめします。

紙を”キレイ”に書くのは本当に無駄なのか

この記事はある種の宗教論です。

コンサルタントの書く紙(スライド)は、基本的にキレイであることが求められます。

中にはスライドライティングが絶望的に苦手で、メッセージのクリアさやコンテンツの価値一本で勝負している人もいますが、少なくともジュニアスタッフのうちは一般的にキレイとされる紙書きの作法は守る必要があります。

それこそ線の太さ、オブジェクトの位置、色使い、ページネーションの統一、文字の大きさ、フォントの統一、箇条書きのインデントなど、チェックポイントを挙げればキリがありません。

しかし昨今、働き方改革の余波を受けて、「キレイ」なスライドはROIが低い、無駄なものであると切り捨てる論調も散見されるようになりました。

紙を”キレイ”に書くことは本当に無駄なのか

そもそも紙をどれだけキレイに書いたところで、コンテンツ自体に価値がなければなんの意味もない、というのもその通りです。コンテンツの質は伴った上での話です。紙の見た目ばかりに気を取られて肝心の中身が伴っていないのは論外です。

その前提を踏まえてなお、私は(特にコンサルタントが作る)スライドはやはりキレイであるべきだと考えています。

理由を敢えてMECEに語るとすれば、機能的価値と情緒的価値の2つです。

機能的価値:クライアントの意識を最大限コンテンツの内容に向ける

一言で言うと、クライアントにコンテンツを伝える際にノイズとなるからです。

人間不思議なもので、(いくら口では見た目は気にしないと言っていようが)誰でもズレているオブジェクトには本能的に注意が向きますし、違和感のあるフォントや誤字脱字にも無意識に気を取られるものです。

プレゼンテーション中には我々は精一杯伝える努力をしますが、その意識が「違和感」の認知に使われてしまうと、クライアントへの伝達に支障を来します。

徹底的にノイズを除去する、これは一つのわかりやすい価値です。

情緒的価値:迫力を伝える

繰り返しになりますが、本質的な価値はコンテンツの質であり、スライドのキレイさではありません。逆説的ですが、見た目が本質的に価値ではないからこそ、キレイに書くことに意味があると考えています。

見た目がガタガタの資料と、整って美しい資料、どちらも同じことを言っているとしても、その資料から伝わってくる非言語的な「迫力」が全く異なります。

文字列やコンテンツの内容が「情報」を伝えるものであるならば、スライドのキレイさは、そのコンテンツが信頼に足るものであるという「迫力」を伝えるためのものではないでしょうか。

人間どこまでいっても、100%論理では動きません。ちょっとした見た目の違いで人がそのコンテンツに関して感じる印象は変わるものです。

コンテンツ自体もさることながら、それを作った人間から伺える覚悟や目の色で意思決定をする人も少なくありません。

究極的なコンサルティングの価値が成果物の提出ではなく物事を前に進めることにあると考えるのであれば、こういった「見た目」の非言語的価値にも(時間が許す限り)こだわりたいところです

「わかる」のレベル感

物事を「わかった」と表現することのレベル感は、人によって異なります。
それぞれの「わかり方」ごとに一長一短あるので、どれが一番良い悪いという話ではありませんが、少なくとも「わかり方」にはレベル感がある、人によって癖の差があるのだという話です。

わかり方の分類

Lv1. 表面的に定義を丸覚えしてわかる人(Aである。)

何か新しいことに触れた際、それを鵜呑みにしてしまうわかり方です。
物事を表面的に捉え、いろいろな情報をかき集めるのが得意なタイプ。
スピード感にはあふれますが、一方でなぜそうなるのかということをあまり考えるタイプではないので、深い議論ができません。

Lv2. なぜを理解してわかる人(Aである。なぜならA'だから。)

Aである、ということを言われても、素直に納得はせず、なぜそうなるのかという理由が伴って初めて「理解した」というわかり方です。
人によっては、上司から「あまり素直ではない人」というレッテルをはられることもしばしばあります。
物事を深く考える癖がついているという点では優れていますが、Lv1の思考法と意識的に使い分けないと、他の人がスッと流すような部分にも噛み付いてしまうなど、面倒な人になってしまうこともあります。

Lv3. 他との関連を理解してわかる人(Aである。AはBとxxな関係がある)

その定義、なぜそれがそうなるのかということに加え、他のものとの関係性も含めて理解しないと理解した、と言わないタイプです。

あるテーマについて全体マップのようなものを持っており、このマップの中でこの事柄はここに位置づけられる、というわかり方をするものです。

この思考は物事を構造化して捉える際に必要になるものですが、すべての事柄についてこういう理解をしようとすると非常に時間がかかります。

大体の書物や人の話し方というのはこういったものではないので、思考としてはとても負荷がかかります。

例外や反例を理解してわかる人(Aである。Bでも、CでもなくAである)もこのタイプです。

わかり方はひとそれぞれ、理解の早さと深さは相関しない

コンサルファームでも人によって理解の早さは本当に異なります。
「わかった」と言ってもLv1でわかったと言っているのか、「わからない」と言ってもLv3でわからないと言っているのかで全く事情は異なります。

物分りの良い、理解の早い人が賢いとされがちですが、わかり方にはレベル感があるということを考えると必ずしもそうではありません。

Lv3の人がLv1のよりも必ずしも優れているかというとまたそれも別の話です。
求められる理解の深さは職業やシーンによって異なります。それぞれの思考の長所や短所を生かして使い分けられるようになることが最も良い「わかり方」だと考えます。